平和が訪れると日常の生活のことが人々の支配的なことがらとなるが、戦争になると平和の大切さが人々の支配的なことがらとなる。こんな意味のことを思想家・山川均が述べていたことを思いだす。
チベット問題の惹起で北京オリンピックが揺れている。欧州では複数の大統領や首相が開会式欠席を表明、聖火リレーは抗議行動で異常事態となっている。長野もルート変更するという。
4年に1回のスポーツの祭典、オリンピック。第2次対戦中は中断されたように、オリンピックと政治は一見無関係にように思えるが、実はそうではない。
戦争になってしまっては、スポーツどころか、家庭生活やおおよその文化芸術、そして恋愛までもが無残に切り刻まれていく。人間生活はすべてが平和という基礎の上に成り立っている。
ちょっと考えれば誰にでもわかることだが、かの大戦からはやくも63年が経過する。とりわけ今日本の人々は戦争と平和に鈍感になっているような気がしてならない。
とりわけ若い層に想像力の欠如も見られる。憲法9条に対する国民意識も大きく後退している。
世界のあちこちで紛争が絶えず、人権が否定されている。欧州の人々はこのことに今なお敏感であることがこのチベット問題で現出した。
オリンピックに向けて、一生懸命練習を積んできた選手の気持ちはよく理解できる。でも、平和なくしてスポーツは成立しない。
選手だけではない。観る側もそのことにまず想像力を張り巡らさなければならない、そんなことを朝一番考えた次第である。
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※今回のチベット「騒乱」は、オリンピックを妨害しようとしたダライ・ラマ法王の意図があるとの主張もあるいが、この3月は、ちょうど49年前の1959年3月10日、ラサでチベット人が蜂起し、中国政府が87,000人を殺害して鎮圧、この節目であることが蜂起の背景と考えられる。