原水爆禁止日本国民会議(原水禁)は、2005年以降、連合、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)の三団体共同による「核兵器廃絶平和ヒロシマ・ナガサキ大会」を開催してきたが、主催三団体「連合、核禁会議(核兵器廃絶と被爆者援護、原子力の平和利用)、原水禁会議(非核3原則の法制化、プルトニウム利用政策廃止)」はその思惑の違いにより、連合の調整も「不調」に終わり、「被爆68周年原水爆禁止世界大会」は原水禁による単独開催となった。
北海道では、これまでの運動の経緯から、原水禁(北海道平和運動フォーラム)・連合北海道・北海道核禁会議の三者で統一代表団を派遣することとし、例年同様、「統一代表団独自企画」を実施した。
広島大会は8月4日、連合参加者団(18人)が、広島平和記念資料館を見学した後、北海道統一団団結式で、北海道平和運動フォーラム中村代表は、「初めて参加される方、お子さんも大勢いるが、この広島の地で何が起こったのか、五感で感じとってほしい」と述べあいさつした。
8月5日は、ピースウォークで、広島平和記念公園・原爆ドーム慰霊碑周辺を見学し、現地実行委員会からの説明があった。その後、北海道統一団独自企画「原爆死没者慰霊碑への献花」を行った。
夜は「連合2013平和広島集会」に参加し、全国から約2000人が参加した。連合広島石井会長の開会あいさつ、連合南雲事務局長による主催者あいさつ、広島市・広島県、および国際労働組合総連合会(ITCU)イザベル・ホファリンンさんからの来賓あいさつのあと、「平和の語り部・被爆体験証言」と題して、広島県原爆被害者団体協議会の坪井直理事長が講演した。
坪井理事長は、20歳の時、爆心地からおよそ1kmの路上で被爆し、現在まで10度の入退院、そのうち3度は面会謝絶の危篤状態、慢性再生不良貧血症・慢性虚血性心疾患・悪性腫瘍などを患っている。
坪井理事長は原爆投下直後の広島市のすさまじい状況を語り、「私も含め、いつどうなるか分からない、というのが被爆者。当時、助けを求める人たちを助けられなかった負い目、トラウマがあるから、被爆者はなかなか語ろうとしない。私も色々人から言われ、色々な思いはあるが、人の命が第一、世界平和・核兵器廃絶をnever give upの精神で続けている」と話した。
8月6日は、原爆死没者慰霊式・平和記念式が開かれた。
8月7日、被爆68周年原水爆禁止世界大会は、広島から長崎に移り、開会総会が開かれ、約1600人が参加した。長崎県内を回る「反核平和の火リレー」によるオープニング、被爆者など核の犠牲者への黙とうを捧げた後、川原重信・長崎実行委員長が開会あいさつを行った。
主催者あいさつに立った川野浩一・大会実行委員長は「長崎を最後の被爆地にとの願いもむなしく、福島原発事故が起きてしまった。そして、68年経っても様々な問題が解決していない。全ての核の廃絶しか私たちの未来はない」と述べるとともに、長崎の高校生を中心とした反核・平和の活動を紹介し、「私たちにはまだ希望が残されている。3日間の大会をとおして、そのことを確認しよう」と呼びかけた。
連合を代表し連帯あいさつを行った高橋睦子・連合副事務局長も「核廃絶と国家補償を求めて、2015年の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向けて運動をともに進めよう」と訴えた。また、来賓の長崎市長の田上富久さんは「核兵器の非人道性を指摘する多くの国の決議に日本が賛成しなかったことは遺憾だ。各地域から非核宣言を具体化する活動をすすめよう」と強調した。
大会基調の提案を藤本泰成・大会事務局長が行い、「破綻した原子力政策、エネルギー政策の転換を」など、核兵器の廃絶、原発再稼働の阻止、被爆者の多くの問題解決にむけて討論を進めようと呼びかけた。
特別ゲストとして、来日しているアメリカの著名な映画監督のオリバー・ストーンさんと、アメリカン大学歴史学教授のピーター・カズミックさんが参加した。二人はアメリカによる日本への原爆投下について「すでにソ連の参戦が決まった段階で日本は降伏することがわかっていたので、原爆を使う必要は無かった。それでも使ったのはソ連への対抗のためだ」と述べた。「アメリカは核兵器の廃絶はできるのか」という質問に、オリバー・ストーンさんは「アメリカは冷戦終了後も核兵器を増大し続けてきた。それをただしていける国はどこにもない」と、悲観的な見方をした。これに対しピーター・カズミックさんは「私は市民の力に希望を持っている。それには核や戦争にもっと怒る必要がある。特に日本人は今の反動的な政治にもっと怒るべきだ」と訴えかけた。
18歳の時に爆心地からわずか1.8キロの地点で被爆し、奇跡的に一命を取り留めた築城昭平さんは、その時の凄惨な状況の証言に立ち、「明後日の長崎原爆の平和祈念式典でも証言するが、その時には、核の非人道性決議に署名しなかった事に抗議したい。また、福島原発事故から、原発の再稼働や原発輸出は許せないと言いたい」と決意を語った。
福島原発事故の状況について、渡部英明・福島県平和フォーラム事務局長が「事故から2年半が経過するが、事態は何も変わっていない。除染も中間貯蔵も進んでいない。40万トンを超える汚染水が溜まって、一部は海に流出している。原発は原爆と同様に、人道に反するものであり、世界から無くさなければならない」と指摘した。
平和へのメッセージの最後に、若い力として、高校生国連平和大使と高校生1万人署名活動実行委員会の70人が登壇し、第16代大使に選ばれた12都道県の20人全員が抱負を語った。また、署名運動も13年間で累計で100万人を越え、本年度分は8月20日に欧州国連本部を訪ねる高校生平和大使から届けられることになっている。
集会は最後に、長崎実行委員会のみなさんのリードで「原爆を許すまじ」を合唱し、長崎大会の開会を宣した。
8月8日、平和長崎集会は、原水禁による単独開催となったため昨年の約半数となる3300人が参加し開かれた。
第1部「2015NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議に向けて」では、広瀬 訓・長崎大学核兵器廃絶研究センター副センター長が基調講演を行った。
広瀬さんは「ヒロシマ・ナガサキの経験がある日本人は発言力がある。原子力の平和利用は、もっと進めるべきだ。発展途上国では医療用のアイソトープ(レントゲン等放射性物質を活用したもの)を熱望しており、製造・維持・管理する技術支援を必要としている(ただし、日本の場合、原子炉は発電用のみであるため、医療用アイソトープは米・英・仏・加からの輸入品がほとんどであり、東海村等の研究用原子炉で加工されているものは極少数しか流通していない)。2015年のNPTで日本がやるべきことはたくさんある。日本国民の核兵器廃絶の意思に期待したい」と述べた。
第2部「次世代への継承」では、「被爆者の訴え」「高校生平和大使」から語りがあった。
「被爆者の訴え」では公益財団法人・長崎平和推進協会継承部会の奥山アヤ子さんが訴えた。(被爆当時8歳)奥山さんは「その日もたいそう暑かったばい。爆心地から500mのところで被爆しました。普通であれば肉体は蒸発していますが、とっさに地面に伏せたので火傷はしましたが、助かりました。母も父も兄も妹も即死でした。弟は生きていましたが、火傷が重傷で苦しみながら二カ月後に死にました。あとから聞いたら焼けて皮膚がはがれ出血しながら『水をくれ』と頼んでいる人たちや炭化した死体がそこらじゅうにありましたが、あまりのショックでその日以降の記憶がまったく無いんです。遠い親戚に預けられ、親戚自体も貧しいため、被爆して髪の毛は抜け、歯槽膿漏の年齢ではないが歯茎から出血し、からだはだるく具合は悪かったが、病院には行かせてもらえませんでした。今まで悲しさと苦しさの中で生きてきました。痛みを継承しないと相手の痛みを共有できません。体験の裏づけのない継承は憎悪と恨みだけを増幅させます。だから、いとも簡単に加害者に転身できます。過去の悲しい束縛から解放され、平和を実現するには、人の痛みを自分のものにすることによってしか平和は築けないのです。だから、話すのもつらい被爆体験を今お話しているのです」と話した。
「高校生平和大使」では北海道を代表して、山崎亘祐さん、藤田沙織さんが「第16回目となる今年は、合計20人の高校生平和大使が“核兵器廃絶と世界平和を求める願い”をスイス・ジュネーブ国連欧州本部に、高校生1万人署名とともに届けにいきます」と決意を述べた。
8月9日は早朝、被爆地「淵中学校」にある慰霊碑にて墓参を行い、平和公園にて原爆犠牲者慰霊平和式典(長崎市主催)が行われた。
午後からは、連合長崎によるガイド付きで平和公園内の被爆史跡巡り(ピースウォーク)が行われた、原爆落下中心地、浦上天主堂遺跡、被爆当時の地層と人骨・盛土状況、防空壕、平和の泉、長崎の鐘、浦上刑務支所、平和祈念像を見学した。