11月27日、札幌市・ホテルさっぽろ芸文館で連合北海道主催「第2回憲法続講座 (全6回)」が開かれ、約100人が参加した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに、主催者を代表し、岡島光行・連合北海道副事務局長が「特定秘密保護法案が衆議院を通過してしまった。いよいよ憲法改正も危機的状況になっている。本講座で得た知識を今後の反対運動の理論付けにしてほしい」と述べあいさつした。

 

 

 

 

 

 

その後、「日本国憲法の成り立ち」と題して、岩本一朗・北星学園大学教授が講演し、日本国憲法の理念が危機的な状況になっている今日、1945年敗戦を経て、日本が何をめざしたのかを日本国憲法の成立過程を考察しながら振り返った。

岩本教授は日本国憲法の成り立ちはについて「①近衛文麿は憲法改正に意欲を見せたが、1946年12月6日、 A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが決定し、12月16日に青酸カリにて服毒自殺したため未完成だった。②松本烝治の憲法草案も内容が保守的にすぎて未完成に終わった。③GHQにより作成された日本国憲法草案が元になって成案化された」と述べた。また、「1945年までは『国民主権』ではなく『天皇主権』だったため、法令は主権者とその取り巻きが理解できればいいものとして、文語体(カタカナ)で書かれていた。そして、1946年4月17日に『国民主権』になったことにより『広く一般大衆』にも法令がわかりやすく理解できる文体(口語体:今の形)で『憲法改正草案』が発表された」と説明した上で、「憲法改正草案」が発表されるまでの過程を下記のとおり説明した。

◆1945年10月4日 - GHQ「自由の指令」発令。特別高等警察、“過酷な尋問、拷問機関”の解散、政治犯釈放、言論の自由を盛り込んだ。

◆1945年12月26日 - 憲法研究会「憲法草案要綱」発表。日本文化人連盟。民間大衆の憲法草案。国民主権、象徴天皇制、生存権を明記した)。GHQが内容分析のため英訳(GHQ案のたたき台、日本の主権者の思いを分析した)。

◆1946月1月1日 - 昭和天皇人間宣言(「天皇主権」から「国民主権」に移ったことの明示がされる)

◆1946年2月1日 - 毎日新聞が政府の松本烝治(憲法問題調査委員会)試案を記事にする。(「天皇主権」についてGHQはダメ出しの見解を出す)

◆1946年2月3日 - GHQが3原則提示。極東委員会(英・米・ソと中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フランス、フィリピン、インド。GHQの上部機関)が2月末に機能する予定だったため、「天皇の戦争責任追及」を示唆。上部機関が機能することによりマッカーサーの日本での権限(フリーハンド)に制約が課されることもあり、極東委員会に「日本は国民主権の国に変わった」ことを機能する前にアピールする必要があった。松本烝治案に対抗した案を早急に作成する必要があり、GHQは草案作成にとりかかる。マッカーサーノートには、①天皇制を残して利用、②自衛戦争含む戦争放棄、③貴族・華族制度廃止が盛り込まれる。

◆1946年2月8日 - 日本政府がGHQに「憲法改正要綱」を提出。「天皇主権」がそのまま継続、「基本的人権の制限」が盛り込まれており、GHQが「毎日新聞の時より悪化した内容になっている」と指摘する。

◆1946年2月13日 - GHQは要綱を拒否、日本政府側(松本烝治と吉田茂は仰天した)にGHQ草案を手渡す。GHQが日本政府に渡した時のセリフ(米国立公文書館に記録保管。日本は記録保管無し)で「極東委員会の発足が近づいているので、GHQ案をどうするかが保守派が生き残るラストチャンス。また、君たち日本政府が拒否するようであれば、この国の主権者である日本国民にGHQ草案を公開し、国民に是非を判断してもらうつもりだ」と残す。現在の憲法改正論者はこのことを「押し付け」「米国に脅された」の論拠にしている。

◆1946年4月17日 ひらがな口語体の「帝国憲法改正草案」発表。(GHQのアドバイス(日本側誰一人気付かず)により、第66条に総理と大臣の文民条項を追加。戦争の放棄の目的を成し遂げるのであれば、軍人が大臣になるのは目的を妨げる恐れあり。衆議院で、日本社会党の森戸辰男は生存権(健康で文化的な生活を営む権利)規定を第25条として加えることを提案し、議論のうえ修正可決し生存権条項が追加される。)

◆1946年11月3日 日本国憲法公布(吉田茂内閣)

◆1947年5月3日 日本国憲法施行

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次回の講座開催日は未定。